瞳の中に

 

 東京から電車で三十分くらいのこの街は、

駅の改札を出ると強い風に髪を乱され、一瞬後には潮の香りを感じます。

晴れた日には遠く地平線がキラキラと輝いていて、

それが実は海だと気づいたのは、つい最近のことでした。

 今までに見たことがないほど大きな飛行機が音を立てて頭上を過ぎた時、

私はUFOに遭遇したのではないかと思いました。

空港に縁のない街に住んでいたため、そのくらい見慣れない物体だったのです。

家から一時間半離れただけなのに、ここは別世界のように感じられました。

 私は、この秋に結婚を控えていました。

販売の仕事は心身共に辛く、結婚後も続けていく自信はありませんでした。

退職後三ヶ月間だけの自由は、引っ越しの用意と新生活の準備に消えていきましたが、

それは楽しい忙しさでした。

 ここは、彼が幼い頃から過ごしてきた街です。

海が大好きなのに海のない土地で暮らしていた私は、

彼が望むまでもなく、新居はこの街にしようと決めていました。

休日には自転車で海に行かれるのです。

何もなくても気分転換ができるのは、若い二人には嬉しいことでした。

 バスのロータリーに並ぶ人を横目に、私は彼の住むアパートまで歩くことにしました。

二十分ほどかかりますが、急ぎの用があるわけではないので、

探検がてら歩くのは気持ちがいいものです。

 これからこの街が故郷になるのだと思うと、すべてのものがいとおしく見えました。

お店の名前や外観からおいしそうな食べ物屋さんを探したり、

こんなところに公園があると発見したりするのは、わくわくすることでした。

 アスファルトで埋められた道路が多くなったせいで、

時々地球はこの灰色の塊でできているような錯覚を覚えます。

ほんの僅かな道路の裂け目に咲いている花を、

異次元のもののように感じてしまうのは、私だけではないでしょう。

でも、そんな名前を知らない花でさえ、今の私には愛すべき対象でした。

 日曜日のお昼頃は道を急ぐ人もなく、時間がゆっくり流れているようです。

 通りの向こう側にふと目を向けました。

赤い車の陰に見えたのは、これから私が会おうとする人の姿でした。

「和也!」

 声をかけようとしましたが、次の瞬間に口を閉ざしました。

行き過ぎる車のせいで、ちらっとしか見えなかったとはいえ、

夫になるはずの人が女性と一緒に歩いていたのです。

二人は私のことなど全く気づかず、楽しげに話しながら駅に向かって行きました。

 ひどくショックを受けました。これから私が行くことは知っていたはずです。

その前に、別の人と遊んでいたのでしょうか? 和也はそんな人ではないはずです。

 いつのまにか涙を零していました。何人かが、怪訝な顔で通り過ぎて行きます。

頬を伝った涙がかゆみを感じさせたことで、初めて自分が泣いている事実に気がつきました。

その時です。

 

続きは短篇集でどうぞ。

back