このこねこのこ
春の夜。ぼくは、会社の送別会で帰りが遅くなった。
いつものことだが、この時期はあっちこっちで飲み会がある。
十一時を過ぎているというのに、電車の中は酔っ払いや花束を抱えた人でいっぱいだった。
送る人、送られる人。どちらも、しらふでは口にできないようなことを平気で言っている。
どんなに酔っていても、自分の降りる駅を間違えないのは何故だろう。
犬は遠くからでも自分の家を捜し当てるというから、人間にできないこともないのかもしれない。
その日は三月とは思えないほど暖かくて、コートがいらないくらいだった。
明日の天気予報では「昨日は四月上旬並みの暖かさでした」などと言うのだろう。
昨年の気温を肌が正確に記憶しているわけではないから、こんなことを言っても無駄だと思う。
しかし、人並みに季節を感じることで、自分の感覚が鈍っていないと安心することもある。
だからアナウンサーはお決まりの台詞を口にするのだ。
ぼくは駅から自宅までの道程を、キョロキョロしながら歩いていた。
冬の間は寒くて早足で通り過ぎた道だが、その日は咲き始めた花を眺める余裕があった。
春が暖かく感じられるのは、気温のせいだけではなく、花の多さにもよるのだろう。
（この白いのは、なんていったかな。なんだか街灯みたいだ）
ぼくは花の名前を知らない。
タンポポやチューリップ、朝顔やひまわりくらいなら見分けがつくが、ほかはてんで分からない。
家にあったオリヅルランを「胡蝶蘭が咲いた」と騒いで、奥さんを笑わせたこともあったっけ。
ぼくは早く家に帰りたくなった。家が一番ほっとする。
ぼくの奥さんは、先に寝てしまっただろうか。
朝が苦手な人だから、遅くなる日には無理して起きていなくていいと言ってあるけれど、
待ってくれているとやはり嬉しい。
ぼくは結婚してから、正体を失うほど飲まなくなった。
奥さんが、酔っ払いを大嫌いだからだ。
こうして自宅まで歩いている間に、酔いが覚める程度がちょうどいい。
不意に、足元にやわらかいものが触れた。ぎょっとして下を見ると、そこには黒い子猫がいた。
「なんだ、猫か」
子猫はぼくの足に額を摺り寄せてきた。
かわいいと思うし好きだけれど、ぼくは猫の扱い方が分からない。
犬なら目を見れば何をして欲しいのか大体分かるが、猫は何を考えているか見当がつかない。
それは、ぼくが猫を飼ったことがないからかもしれない。
もともとは、母親が猫を嫌いだったからなのだけれど。
しゃがんで子猫の背中を撫でると、驚くほど華奢な骨格が掌に伝わってきた。
ちょっと強く掴むと命を奪ってしまえそうな、そんな脆さがあった。
ぼくが猫に触れない最大の理由は、この危うさのせいだった。
母親も同じ恐怖を持っていたのだろう。
続きは短篇集でどうぞ。