ネクタイ売り場の女性
「いらっしゃいませ」
彼女にとって、それが業務上必要だからだとしても、
若い女性に笑顔を向けられて嫌な気がする男はいない。
営業の途中、時間つぶしに入った百貨店で、
つい足を止めてネクタイを眺めてしまうのは、物欲からだけではないだろう。
かわいい女性に「いかがですか？ この春の流行ですよ」なんて声をかけられたら、
内心ちょっとはでだと感じても、やぼったいオヤジとは思われたくなくて
「ああ、いいね」と応えてしまうのが男の心理だ。
すると彼女は、白く細い指でキュッと結び目を作ったネクタイを胸元にあててくれる。
鏡に映ったオレは上気しているせいか、まだイケるじゃないかと勘違いしてしまう。
「これをもらおう」
ぐずぐずしているのは男として情けないので、すぐに決断した。
「ありがとうございます」
彼女は歯磨きのＣＭのように、にっこり微笑む。そのすぐ後で
「消費税込みで、一万五千七百五十円になります」
と電卓を見せる。
今週は酒の約束を一つキャンセルしなくちゃなるまい、
というオレの気持ちは、彼女に分かるはずがない。
「少々お待ちください」
彼女は奥のレジに消えて行った。
残されたオレは、買い物した者だけが持つ、ちょっと得意な気分で売り場を歩き回った。
夫婦で来た男性がネクタイを選んでいる。
いつものオレと同じで、店員と話しているのは奥さんの方だ。
「こちらは春らしくてすてきですよ」
店員が一所懸命説明しても、ダンナがどれどれと見ても、
奥さんの「ちょっとはでじゃない」の一言で却下されてしまう。
その姿を見ると、一人でネクタイを選んだ、ただそれだけのことが、
オレに言いようのない快感を覚えさせた。
「お待たせいたしました」
オレの戦利品が戻ってきた。
「ありがとうございました。またどうぞお越しください」
お辞儀をすると髪が揺れる。
かわいい子だったが、そういえば名前は何だったかな。
帰り道、どうしても思い出せないでいた。
また今日も、帰宅して叱られる男性が一人。
でも、彼は衝動買いをしたとは思っていない。
妻も、スーツほどの出費ではないし、夫のセンスが意外といいので見直していた。
それに、今度自分が何かねだるときに今回のことを持ち出せば、夫は買ってくれるに違いないと思った。
百貨店のネクタイ売り場に美人が選ばれるのには、こんな理由があるのだ。