海

　海が見たい、と彼女が言ったのは地下鉄の中だった。

適度に混んでいる車内には、営業のサラリーマンや買い物帰りの女性たち。

普段は僕たちもその中のひとりだが、今日は久し振りの有給休暇を楽しんでいた。

　朝一番で映画を見てからデパートに行き、僕の母の誕生日プレゼントを選んだ。

さんざん歩き回って彼女が決めたのは、鮮やかだけれど透けるような、南の海の色のスカーフだった。

こういうものは、男性にはどうしても探し出せない。

きっと、女性にしかわからない秘密のしかけがあるのだろう。

「こんなに天気がいいのに、わたしたち屋内にばかりいるわね」

　ランチタイムをだいぶ過ぎてから入ったイタリアンレストランで、ペリエを飲みながら彼女は笑った。

「海が見たいわ」

　電車の中で彼女が呟いた。

背の低い彼女は、僕と話をする時にはいつも顔を上に向ける。

それは、幼子が母親に話しかけるのと同じで微笑ましい。

小さいねと言うといつもすねるけれど、それがかわいいねと同義語だとは、なかなかわかってもらえない。

　彼女は上を向いているのに、視線は僕を通り越していた。

気になって振り向くと、そこには雑誌の中吊り広告があった。

水着を着た女性の写真。

それで急に海を見たいなんて言ったのだ。

　でも、僕は知っている。

彼女が本当は海がそんなに好きじゃないってこと。

昨年の夏、海に行こうと誘ったら、最初ははしゃいでいたくせに、日焼けをするだの水着を着るのは恥ずかしいだのと言って、

結局行かなかったのだ。

「ねえ、海が見たいわね」

　よし、そんなに言うなら見せてあげよう。

「ちょっと目をつぶってごらん」

　彼女は、驚いたような恥ずかしいような顔をした。

まさかこんなところでキスをするとは思わないだろうが、目を閉じてという言葉にはどきどきとわくわくが付き物だ。

彼女は素直に目を閉じた。長い睫毛のせいでよくわからなかったが、まぶたがきらきら光っている。

「閉じたわよ」

続きは短篇集でどうぞ。