知られないわたし

　わたしを産んだ当時、

その体内にまだ自分の成分が残っていると

思われるほどの分身である我が子なのに、

泣いている理由が分からず、

一緒になって泣きたくなったときがあったと、今でも母は笑う。

　たくさんのテストを採点して、

わたしの得手不得手を把握している中学のタナカ先生は、

わたしが授業中に友達と交わす秘密の手紙や、

休み時間に話すたわいのないおしゃべりを、

気にしているという素振りも見せなかった。

　毎朝の通勤電車で乗り合わせる中年のおじさんは、

わたしが乗り換える駅や

どんな服を持っているかはよく知っていても、

わたしが会社でどんな仕事をしているかどころか、

名前すら知る由もない。

　雑誌の占い特集で、

生年月日時分や出生地から調べて表われた結果が、

驚くほどわたしの性格を当てていたとしても、

それはあるパターンに当てはめた答えをしているだけだから、

決してわたし自身を分かったとは言えない。

　入院した際、尿や血液の検査結果を数字に置き換え、

レントゲンを撮り、胃カメラまで覗いて、

わたしの体内を知り尽くした医師のスズキ氏にとって、

巡回に行くまで患者が読んでいた本が何かは

診察には関係ないらしい。

　いつどこでどんな買い物をしたか、

全て把握している某クレジットカード会社は、

わたしの好みそうなチラシを請求書に同封してくるが、

それがとても迷惑で

単に資源回収の手助けにしかなっていないとは考えないのか。

　散歩の途中で出会う初老の女性

（確かアライさん）は、

わたしの犬については毛並みからクセまでなんでも知っているが、

飼い主には興味がないから、

犬を連れずにすれ違ったときには挨拶もしない。

　スーパーのレジパートのコバヤシさんは、

わたしの買い物籠の中身は全部知っていても、

夕食には肉じゃがを作るものだと思っているから、

「カレールーを買い忘れていますよ」

とは言わない。

　好きな食べ物や音楽だけでなく、

本人の知らないところまで

わたしの体をよく知っていると思われる

十二年連れ添っている夫は、

その体をつくっている月経周期にはあまり興味がないようだ。

　どんなものが好きでどんなことが不快か、

その理由もきちんと把握していて、

心に嘘を吐いたらすぐに分かるほど

自分を知り抜いているわたし自身は、

今この瞬間どんな顔をしているか知ることができない。

back