椅子の話

　古くなったからって簡単に捨てるもんじゃないね。

代わりはいくらでもあるなんて思っちゃいけない。

探してみるとこれがなかなか見つからないんだ。

ああ、椅子の話。

　うちにある椅子はじいさんの代からのもので、

背もたれや足は飴色に変わっている上にあちこち汚れていて座面も破れていたから、みすぼらしいったらない。

あんまり見た目が悪いから最近はカバーをかけていたけど、すぐにずり落ちて、これがまた貧相さに拍車をかける。

でも、外すともっとみっともないからやめられない。

　座り心地がいいのがわかるのか、気がつくとこの椅子の上で猫が居眠りしてる。人がいる時でもお構いなしだ。

座っている人間が寛いでいるからかもしれないな。

膝の上にさっと飛び乗って、一、二周して落ち着き場所を探したあとで、まあるくなっている。

気楽なもんだ。

　もちろん、猫の指定席じゃなくて、これは私の椅子だ。

本を読んだり何かちょっと考え事をしたり、何もしない時でも座ると落ち着く。

この落ち着くって感じがいい。

　ここからの景色はいつも同じだ。

庭ですぐ目につくのはサルスベリだ。

冬は萎びた茶色い実とつるつるした白っぽい木肌が寒々しいが、夏になると鮮やかなピンクの花が何日も咲いている。

ああ、だから百日紅って書くんだなと妙に納得する。

　部屋の中はと見ると、目の高さには飾り棚があって、旅先で撮った写真や買ってきた人形なんかを妻がごちゃごちゃと並べている。

だけど宮島に行ったのは、もう五年も前じゃないか。

昨年の夏の上高地の写真はどうしたと訊いたら、もう飾るような顔じゃないわと笑う。

五年でそんなに変わるのかな。

写真は時間を止めてしまって、ふたりは永遠に歳を取らない。

でも、飾りっぱなしでうっすらと埃をかぶった物は、余計に古臭く感じる。

そう、ずっと昔から同じ場所にある椅子のように。

　もういい加減その椅子も処分しましょうよ、と言ったのは妻だ。

「ほら、今はこんなすてきなのがいろいろあるのよ」

　ちらしには、なるほど清潔で美しい家具がたくさん載っている。

「このソファなんて、上高地のホテルであなたがいいなあって言ったのに似てない？

もう子どもがいないんだから、白でも汚される心配はないし」

　あの時自分がどんな心境だったのか、正直あまりよく覚えていない。

これまで贅沢をさせてやれなかったし、妻は物をねだるタイプではなかったので、たまには聞き入れようと思ったのかもしれない。

「よし、じゃあ椅子を買い換える代わりに、おまえもそのへんのごちゃごちゃしたのを片付けてくれ」

「ごちゃごちゃって何よ？　あなたが脱いだ服を片付けるのも、季節の飾り付けをするのもわたしよ」

「いいから。家具だけ新しくしたって、ホテルみたいな部屋はできないんだからな」

「わかったわ」

　妻は私の気が変わらないようにと思ったか、素直に頷いた。

　週末は早速家具屋に行った。

現物を見るとほしくなるのは女性だけではない。

ゆったりしたソファに腰掛け、オットマンに足を乗せて、悪くないと思う。

古い家具は引き取ってくれると言うので処分も任せた。

妻はずっと機嫌がいい。

　あれから二週間。

なんだか落ち着かない。

部屋の中がきれいなのはいい。

妻は居間だけでなく、ほかの場所もきちんと片付けて、家の中は以前よりもずっと清潔になっている。

でも、居心地がいいかというと素直には賛同できない。

　なんだか、スリッパの左右を間違えて履いているみたいな気分がするんだ。

え、スリッパに左右があるかって？　あるよ。

最初はどっちがどっちでもいいような履物だけど、自分でこっちが右、こっちが左って決めて履き続けるとちゃんと左右ができる。

それをうっかり間違えて履くと、なんか気持ち悪い感じがするだろう？

それを面倒がってそのまま履き続けると、今度はどっちが右でも左でもざらざらした違和感が残る。

こんなはずじゃないんだけどなあって思いながら履き続けることになる。

　どんなにきれいなものでも嬉しいのは最初だけで、そのうち慣れてくる。

それがそこにあるのは当たり前のように感じるけど、本当に自分がほしかったのはそれだったのか、だんだん自信がなくなる。

　ああ、椅子の話だった。

そうだよ、椅子の話をしてるんだよ。

なんだと思った？