傘を差す人
バシュッ!
後ろで突然鈍い音がした。それはよく聞くものだが、この場には不似合いな音だった。ワンタッチ傘を開く音。
今夜七時からの降水確率は八十パーセントだった。
この混雑した待ち合わせ場所では、だからきっとみんな傘を持っている。
昼間の空は鉛色に重たくなっていたが、今はまだ雨は降っていない。
日射しがあるわけでもないし、ここで傘を差すのはおかしい。
音の主は一体どんな人だろうという好奇心から、そっと振り向いた。待ち合わせの相手を探す振りをして。
黒い大きな傘に隠れて、顔は見えない。でも、服装からして男性だということはわかった。それも中年の。
男は当たり前のように、傘を差して立っていた。ぼくのほかにも男の行動に興味を持った人が何人かいた。
その他大勢は男を一瞥しただけだった。ヘンな人、で片付けて、無視することに決めたのだ。
待ち合わせの相手は、まだ来ない。もう十分も遅刻だ。
「降ってくる。降ってくる」
男が呟くのが聞こえた。
(え?)
思わず空を見てしまった。雨はまだ降っていない。
ぼくが上を見たことに釣られて、男の声が聞こえないはずの距離にいる女の子が、同じように空を見た。
でも、傘は差さなかった。彼女にも雨は感じられないらしい。
「こういう安心している時を狙って、ヤツは降ってくるんだ」
(ヤツって、なんだ?)
「晴れている時にはやって来ない。最近は、日傘を差す人が多いからな。でも、こんな曇り空は危ない」
男の声は、だんだん大きくなってゆく。
(何が危ないんだ? 一体何が降ってくるんだ?)
ぼくに話しかけられているわけではないのに、なんだか落ち着かなくなった。男は、ひとりで喋り続けている。
「見えないからといって、油断してはいけない。見ようとしないから見えないってこともある」
もう一度空を見た。雨も雪も降っていない。が、なんだか細かい粒子が見えるようだった。
続きは短篇集でどうぞ。