ぼくはアルバイトの帰りだった。

その日は何も考えず、夜十二時過ぎに自転車を走らせていた。

　コンビニのバイトというのは、慣れれば簡単で楽な仕事だ。

客がレジに持って来た品物は、ぼくには興味がない。バーコードでピッと読み込むだけだ。

年齢や性別を見分けることは必要だけれど、それも「見た目」だから適当でいい。

タバコを注文する客には、指定された銘柄を渡せばいいし、

おでんやアイスクリームだって、言われたものを言われた量だけ取り出せばいいのだ。

無断で休んだり、レジの金額を間違えるなどということがなければ、店長は文句を言わない。

そういうところは、抜け目ないつもりだ。

　アルバイトという気軽さもあるのかもしれないが、

一所懸命にがんばって小さなことで悩むのは、ぼくの性に合わない。

適当にウケる人格を作って、相手に「あいつはこんなヤツだ」と思わせておけば、

変な期待は背負わなくて済む。人間関係のストレスもない。

　不意に、すぐ近くで声がした。

自転車を走らせていたのにそんな感じがしたのは、今思うと不思議だった。

しかもその声は、なんだかとても懐かしい気持ちにさせるものだった。

何を言っているのかまでは分からない。

それは子守り歌のようでもあり、遠い昔に聞いたことがある声のようにも聞こえた。

　歩行者用の信号が点滅していた。

ぼくは声を振り切るように、ペダルを踏み込みダッシュをかけた。

その時、脇の植え込みの陰から突然彼は現れた。

「ねぇってば！　何度呼べば分かるんだよー！」

　目の前に走り込み、自転車の前でとおせんぼをしているのは、

どう見たって幼稚園くらいの男の子だ。

ぼくは慌ててブレーキをかけたが間に合いそうになく、ハンドルを切って転びそうになった。

その間に信号は赤に変わり、数台の車が行き過ぎた。

こんな遅い時間でも、何処かへ行く人はいるのだ。

「何やってるの？」

　ぼくが言おうとしたセリフを、その幼児は口にした。しかも、笑い転げながら。

「急に飛び出したら危ないって、教わらなかったのか？」

　ぼくは体勢を立て直し、威厳を取り戻してから、

なるべく怖がらせないように当たり前のことを言った。

すると幼児は

「信号が赤の時は渡っちゃいけないって、知らないの？」

　と、これもまた当然のことを言った。ぼくは何も言えなくなった。

幼児は勝ち誇ったような顔をしている。しかし、次の瞬間に真顔で言ったのは、

「遅かったね、大地さん」

だった。

（ぼくの名前を知っている…。何故だ）

　幼児はぼくが口を開く隙を与えず、

「でも、まだ間に合うから」

　と哀しそうな顔をした。

それは、外見と同じような子供の声だったが、哀れむような口調は幼児のそれではなかった。

（さっきから聞こえていた声は、これだったのか？　でも、ほくはこの子を知らない）

　幼児はぼくの手を取り、歩き出そうとした。

狐につままれたような気分になったぼくには、

この状況が全く読めなかった。慌てて手を振り解き

「ちょっと待ってくれ。君は誰なんだい？　迷子なら交番に連れて行ってあげるよ」

　迷子にしては落ち着き過ぎているが、ほかに考えられなかった。幼児は

「ぼくは光。迷子じゃない。大地さんに会いに来たんだ。ルナさんに頼まれて」

　と一息に言った。

（ルナに頼まれただって？）

　ぼくは耳を疑った。と同時に、胸の奥が痛くなった。

　一年前に別れたルナ。それは、ぼくの一方的な我侭だった。

いわゆる適齢期になっても結婚する意志のないぼくは、

このままつきあっても時間の無駄だと言い聞かせ、二人の七年間にピリオドを打った。

嫌いになったわけではなかった。

ただ、彼女の望むような将来を、ぼくが望まなかっただけだった。

ルナは、何度もぼくを説得した。これまで二人で過ごした季節は、決して軽くはなかったから。

　しかし、ぼくが会社を辞めてフリーターになった時に、ルナは覚悟を決めた。

　最後の夜、ルナは月を見上げ

「月は満ち欠けして見えるでしょう？　でも、それは地球の人だけが感じる現象なのよ。

例え雨の日でも月は空にいて、いつも人間を見つめているのだから」

　と言った。その言葉に感傷的になるくらいなら、ぼくが彼女と別れることはなかっただろう。

そんなものかという気持ちで聞いていただけだった。

それは彼女を悲しくさせたかもしれないが、

脈があると思わせる方がよっぽどかわいそうなのだ。

「ルナさんが、事故に遭った」

　光がぽつりと言った言葉で、ぼくは現実に引き戻された。

「今、何て言った？」

「ルナさんが交通事故に。あなたを呼んでいる」

　光は繰り返した。ぼくは、その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。

そして、ようやく分かった次の瞬間に生じた感情は、何故か怒りだった。

「君には関係ないだろう！」

　ぼくは、子供相手に大声を出してしまった。しかし、光は落ち着いていた。

「ルナさんは、大地さんのことをずっと想っていた。最近、あなたは空を見ないでしょう？」

「そんなことをしなくても、生きていかれるからな」

「でも、大地さんの心はすっかり疲れてしまった。

だからルナさんは、ぼくをあなたの所に寄越した」

　ぼくは、憮然として空を見上げた。月のない黒い夜だった。

曇っているわけではない。今日は新月なのかもしれない。

　一体どうしろと言うのだろう。別れてから初めてルナの優しさに気づいたぼくに。

「今更、逢いに行かれるわけないよ」

　ぼくは弱さを見せたくなくて、自転車を走らせようとした。

その背中を引き止めるように、光は最後の声をかけた。

「ルナさんからのことづけは『ありがとう。大地がいたから、わたしが輝けた』。

ちゃんと伝えたよ」

　その言葉が終わるか終わらないかという時に、光はその場でジャンプをした。

　あっという間のできごとだった。彼の体は宙に浮き、そのまま空に昇って行ったのだ。

「あ！」

　驚いて見ているぼくの耳に、ルナの声が蘇ってきた。

「いつもあなたを見つめています」

　さっき聞こえていた声だ。懐かしいルナの声。

「ルナって、月の意味なのよ。あなたが大地で、わたしが月。お互いに引き合うといいわね」

　そんな言葉が、二人の始まりだった。

「光は、月の光だったのか」

　ぼくがもう一度空を見上げた時、そこには満月があった。

「本当に、逝ってしまったんだな」

　ぼくが呟くと、月は優しく微笑んだように見えた。

やけに眩しい月明かりの中、ぼくは過去を振り切るように自転車を走らせた。