小鹿と王子(1)

 遠い国のお話です。

 その国には深い森がありました。

秋になると狩人でにぎわいますが、いつもは動物たちがひっそりと暮らしている静かで美しい森です。

 ある時、この国のサマト王子が森へ狩りに出かけました。

十五歳になった男の子が狩りを覚えるのは、この国の決まりでした。

馬を操り、森に住む動物をなんでもいいからひとりで仕留めてくるのが、大人の仲間入りのしるしなのです。

王子といえども例外ではありません。

いえむしろ王子だからこそ、誰よりも立派な狩人にならなければいけないのでした。

 サマト王子は幼い頃から、森の中を自分の庭のように駆け回って遊んでいました。

王さまに連れられて、狩りの様子も見ていました。

でも、ただ見ているだけなのと、実際に狩りをするのとでは大違いでした。

 サマト王子は、小さな兎にすら矢を射ることができません。

濡れた瞳で助けを求めるような動物を見ると、つい決心が鈍り、矢を射るタイミングを失ってしまうのです。

ですから、夕方になっても王子は何も仕留められませんでした。

 こんなことでは将来立派な王になれないと思ったサマト王子は、大きく深呼吸をすると目をつぶり、手当たり次第に矢を放ちました。

流れ矢の一本が、一羽のウズラの雛に命中しました。

王子は、こんな小さな獲物しか持ち帰れない自分を情けなく思いました。

またそれ以上に、ひとつの命を奪ってしまった事実に心を痛めました。

 サマト王子の長い一日がやっと終わりました。

王子はほっとして、雛を拾ってお城に戻りました。


 サマト王子が射た矢は、ウズラの雛だけに当たったのではありませんでした。

流れ矢は、小鹿のリムラの足にも傷をつけました。

 リムラはとても慎重な小鹿で、いつもは人間が来ると真っ先に逃げて、夜になるまで森の奥から動きません。

ところが、今日の狩人は少し様子が違いました。

鵜の目鷹の目で獲物を追うぎらぎらした目の男たちではなく、とてもやさしそうな男の子がやってきたのです。

 動物たちの中には、この男の子をよく知っているものもいました。

でも、人が来るとさっと逃げてしまう小鹿がこの子を見たのは、この時が初めてでした。

 男の子は狩りに来たというのに、とても辛そうな顔をしていました。

リムラは不思議に思って、なかなか矢を射ることをしないこの子を遠くから見ていました。

そして、もしかしたらこの男の子は動物に危害を加えないのではないかしらと思って、そっと近づいてみました。

 ちょうどその時、急に射られた多数の矢の一本がリムラの足に当たりました。

リムラは驚きと痛みに声をあげそうになりましたが、じっと我慢しました。

いくらやさしそうな男の子でも、傷ついた動物が人間に見つかったらどうなるかは知っています。

リムラは息を殺して、男の子が去るのを待ちました。

男の子は小鹿には気づかず、小さなウズラを大事そうに籠に入れて、森を出て行きました。


 サマト王子がお城に戻ると、王さまは喜んで迎えました。

なかなか戻らない王子を心配していたのです。

「それで、何を獲ってきたのだね?」

「これを……」

 サマト王子は、ウズラの雛を差し出しました。

王さまは一瞬顔をしかめましたが、すぐに笑顔になりました。

獲物が何であれ、ひとりで狩りができたのです。

王さまは、王子の成長を喜びました。

ウズラの雛は早速調理され、王子は無事に大人の仲間入りをしました。

 大人になったサマト王子を次に待っていたのは、狩りよりも大切なことでした。

結婚相手を見つけるのです。

この国でもっとも賢くて美しい女性を、お嫁さんにしなければなりません。

結婚なんてまだしたくないと思っている王子の心をよそに、王さまは国中の娘に舞踏会の招待状を出しました。


 小鹿のリムラは、冷たい湖の淵でぼんやりしていました。

足の傷は思ったより深く、まだ走れませんでした。

 森には相変わらず毎日のように狩人たちがやってきて、動物を仕留めて行きました。

でも、もうあの男の子はやってきません。

動物だけでなく、木や花にもやさしいあの子がやって来れば、森の奥にいるリムラでもすぐに気配を感じ取るでしょう。

 リムラは時々辛そうな顔をして、溜息をつきました。

でもそれは、足の痛みのせいではありません。

初めて見たあの男の子が忘れられないためでした。

 動物たちの話で、その男の子はこの国のサマト王子だとわかりました。

寝ても覚めても、リムラが考えるのは王子のことばかり。

仲間が心配しても、食べ物もろくにとりません。

 とうとうリムラは、深い森の更に奥にある洞穴に出かけて行きました。

洞穴には年老いた魔女が住んでいて、誰も近づきたがりません。

夜中になると、魔女はほうきに乗って空を飛び、森に住むトカゲやカエルやヘビをさらって行きました。

日陰に生える草やきのこを採って行く時もありました。

それらは、魔女の魔法薬にされるという噂でした。

 リムラが洞穴への道を歩いている時から、魔女にはリムラが来る理由がわかっていました。

こんな暗いところに好んでくるものは、魔女に頼みごとがあるのに決まっているのです。

「おまえは人間になりたいんだね?」

 リムラが口を開くより先に、魔女はそう言いました。

魔女は洞穴よりも更に暗い目をしていましたが、何もかもお見通しでした。

「ええ……」

 リムラはか細い声で答えました。

ここへ来る道すがら、いくら魔女でも、小鹿を人間に変えるなんてできるのだろうかと疑っていました。

でも、何も言わないうちから頼みごとを言い当てるなんて、やっぱり魔女の力は本当だろうかとも考えました。

 案の定、魔女は小鹿を人間にするのは簡単だと請け合いました。

リムラの顔がぱっと輝きました。

それを待っていたかのように、魔女は気味の悪い笑いを浮かべて言いました。

「だがもちろん、ただで人間にするというわけにはいかないねえ。おまえの一番の宝物をもらうよ」

 リムラには宝物などありません。

せっかく人間になれたとしても、美しい声を取られたら王子と話せません。

細くきれいな足をなくしたら、どうやってダンスを踊ればいいのでしょう。

魔女は、そんなリムラの心配も見抜いていました。

「今すぐに寄越せとは言わないよ。ただし、おまえが王子と結婚して一年したら、必ずもらいに行くからね」

 リムラは、ほっと胸をなでおろしました。

サマト王子と結婚できれば、きっと宝石はたくさん手に入れられるでしょう。

魔女の欲しがる魔法薬の材料もあげられるかもしれません。

もしも結婚できなければ……。

その時には、命など惜しくはありません。

 リムラは魔女の差し出した澱んだ紫色の魔法の液体を飲むと、すぐに深い眠りに襲われ、その場に倒れました。

魔女はリムラの体を抱えて空を飛び、湖のそばの樫の木の下にそっと下ろしました。