小鹿と王子(2)
同じ頃、サマト王子が森にやってきました。
今夜はお城で舞踏会が開かれます。
王子は、自分の意志とは関係なく、将来へのレールがどんどん敷かれてゆくので、不安を感じていました。
幼い頃は、何も気にせずに森で遊んでいられました。
動物たちは狩りの対象ではなく、心安らげる友達でした。
敏捷なリスが、サマト王子にかわいい顔を見せてくれました。
小鳥たちの歌声は、時間の経つのを忘れさせました。
湖の水の冷たさと美しさは、自分も動物たちと同じ存在なのだと気づかせてくれました。
サマト王子がぼんやりと森の中を歩いていると、湖のそばにある樫の木の下に誰かが倒れていました。
駆け寄ってみると、それは女の子でした。
慌てて抱き起こすと、女の子は大きな目をゆっくり開けました。
湖と同じように澄んだ瞳は、王子をいっぺんでとりこにしました。
「だいじょうぶですか?」
サマト王子の問いに、女の子はすぐに答えられませんでした。
何度かまばたきをし、自分の手を不思議そうに見つめ、栗色の長い髪に触れました。
透き通るような水色のドレスと、お揃いの靴を身に着けています。
女の子は、とても嬉しそうな顔をしました。
「ええ、ありがとうございます。だいじょうぶです」
小さいけれど、鈴を転がすような美しい声で答えました。
「あなたのお名前は?」
「……リムラといいます」
「あなたは、どこからいらしたのですか? どうしてこんなところに倒れていたのでしょう?」
王子の問いに、リムラはうつむいて首を横に振りました。
本当のことなど、どうして言えるでしょう。
「誰かと一緒にいらしたのでしょうか? それとも、おひとりでいるのだから、この近くに住んでいらっしゃるのですか?」
それにもリムラは答えられません。
口を開きかけるのですが、何もわからないらしく、すぐにうつむいてしまいます。
サマト王子は、リムラが突然の忘れ病にかかったのだと思いました。
「ぼくはこの国の王子で、サマトといいます。よかったら、あなたの記憶が戻るまでお城で過ごしたらいかがでしょう?
いっそ、ずっとお城にいてくださってもかまわないのですが……」
サマト王子の言葉に、リムラの顔が一瞬輝きました。
しかし、すぐにまた目を伏せました。
王子はお城にいていいとは言いましたが、結婚すると言ったわけではないのです。
「でも、ご迷惑ではありませんか?」
「部屋はたくさんあるのです。どこでも好きなところを使ってください」
「王子さまがよくても、王さまは何とおっしゃるでしょう」
サマト王子は考えてしまいました。
息子の結婚相手も勝手に決めようとしている王さまです。
どこの娘とも知らないリムラを連れ帰って、許してくれるでしょうか。
サマト王子はしばらく思案していましたが、やがて言いました。
「ぼくは嘘がつけないから、あなたが森で倒れていたと正直に話して、様子を見てもらうようにしましょう。
王さまは、病人を追い出すほど意地悪ではありませんから」
わずかな希望を抱いて、サマト王子はリムラを立たせようとしました。
しかし、リムラは顔をしかめました。
「どうしたのですか?」
「あ、足が……」
リムラは、そっとドレスの裾をめくりました。
右の白いふくらはぎに、真っ赤な血が滲んでいます。
傷はついさっきできたばかりのようですが、それはサマト王子の矢が刺さったのと同じ場所でした。
リムラが小鹿から人間になった時、体に大きな負担がかかったので、治りかけた傷口が開いてしまったのです。
もちろんサマト王子は、この傷が自分のせいだなどとは夢にも思いません。
湖で傷口を洗い、ハンカチできつく縛って血を止めました。
「茨か何かで引っ掛けたのでしょうか。ずいぶん深い傷ですね。これではますます、こんなところにあなたをひとりにはしておけません。
すぐにお城で、きちんと手当てしなければいけませんよ」
サマト王子がリムラをそっと抱きかかえて馬に乗せようとした時、足元に何かが落ちました。
「これは……」
サマト王子が拾い上げると、それは美しいふち飾りのついた白い封筒でした。
王さまが国中の娘に出した舞踏会の招待状です。
リムラは、魔女がこんなものまで用意しておいてくれたのだと嬉しくなりました。
王子もまた、笑顔になりました。
その顔があんまり眩しくて、リムラはどきどきしました。
「ああ、あなたもお城に招待されていたのですね。それなら、堂々といらっしゃればいいのですよ。心配することなど、何もありません」
サマト王子は、リムラと一緒にお城に帰りました。
道々、ふたりはすっかり打ち解け、もう何年も一緒にいたかのように親しくなりました。
これまで離れ離れでいたことが不思議なくらい、お互いに惹かれ合っていたのです。
サマト王子が帰ると、お城ではもうすっかり舞踏会の仕度ができあがっていました。
「いったい、どこに行っていたのだね?」
主役がいなくなっていたので、王さまはたいそう気をもんでいました。
「すみません。ちょっと、考え事をしていたものですから……」
王さまは、サマト王子の返事が終わるより先に、王子の後ろにいる娘に気づきました。
「その娘は?」
「ああ、リムラといいます。足をけがしているので、治療してもらいたいのです。それに、忘れ病にかかっているみたいなのです。
でも、すごくすてきな娘です。ぼくは、リムラと結婚したいと思っています」
「そんな、どこの娘かわからないのに勝手に決めるなんて……。今夜は、国中の娘たちがやってくるというのに」
王さまは頭を抱えました。
サマト王子の後ろで、リムラが心配そうにしています。
ところが、王子はにっこり笑いました。
「リムラも招待状を持っていますから、勝手というわけではありません。
王さまのためにも、今夜いらっしゃるお客さまのためにも、舞踏会は予定通り行ってください。
でも、国中の娘たちに会ったとしても、ぼくが選ぶのはきっとリムラです」
王さまは、いつの間にかしっかりした息子を見ました。
今まではなんとなく頼りなく、いつもあれこれ世話を焼いてやらないといけなかった小さな男の子が、こんなに我を通すなんて初めてです。
恋には人を強くする魔法があるのでしょうか。
「わかった。みんなに失礼のないようにしてくれたまえ」
「はい。ご心配には及びません」
サマト王子は、リムラの足のけがの手当てをさせました。
そのあとで衣装係を呼び寄せ、大急ぎでリムラに最高の仕度をさせるようにと言いました。
まもなく舞踏会が始まりました。
まず始めに、サマト王子は王さまの隣で、挨拶に来る娘たちひとりひとりと言葉を交わしました。
この日を楽しみにして着飾って来た娘たちを、邪険にはできません。
国を治める者は、すべての人たちに心を配らないといけないのです。
美しい娘はたくさんいました。
でも、それはただの人形のような美しさで、誰も彼もどこか似ていました。
最後にリムラが挨拶に来ました。
サマト王子は、息をするのも忘れてリムラに見とれました。
深い緑色のドレスは、ふたりが出会った森に似ています。
結い上げられた栗色の髪は、リスの毛並みと同じくらいつやつやしています。
大きな瞳は湖よりも深く澄んでいますし、小さな唇はさくらんぼそっくりです。
リムラは、あの森が命をもったらこんな感じだろうと思われるくらい、まるで森の精のような姿をしていました。
リムラに見とれたのは、サマト王子だけではありません。
お城中の人たちや、ほかの娘たちまでが、リムラに心を奪われました。
王さまさえも言葉を失くし、じっとリムラを見つめました。
そして、息子が選んだ娘に間違いはないかもしれないと思いました。
挨拶が済むと、ダンスが始まりました。
娘たちはみんなサマト王子と踊りたがりましたが、王子はまずリムラの手を取りました。
リムラは流れるようにステップを踏みました。
時々、傷ついた足が痛みましたが、手厚い看護と薬のおかげで、ほんの一瞬顔をしかめるだけで済みました。
それに、あんなに憧れていたサマト王子と躍っているのです。
リムラは笑顔でドレスの裾をひるがえし、軽やかにターンをしました。
サマト王子は、リムラのダンスがあんまりすてきなので、足をけがしているのを忘れてしまいました。
もうほかの娘たちのことも考えられません。
何曲も続けてリムラと踊り、最後までその手を離しませんでした。
そして、そろそろ夜も更ける頃になって、サマト王子は宣言しました。
「みなさま、今夜はお忙しい中おいでくださり、誠にありがとうございました。
たくさんの美しいお嬢さま方にお会いしましたが、わたしは、このリムラを妻とすることに決めました」
歓声と祝福の拍手は、いつまでもいつまでも続きました。
リムラは、夢を見ているような顔で王子を見つめました。