小鹿と王子（５）

　さて、月日は過ぎ、サリナ姫は七歳になりました。

　サリナ姫は、お父さまとお母さまの十回目の結婚記念日に、何かお祝いをしたいと考えました。

何をしたらいいかといろいろな本を読んでみて、木の実のケーキを焼いて差し上げようと決めました。

　サリナ姫は、もうちゃんと卵をひとりで割れるのですが、ケーキを焼いたことはありません。

そこで、お城の厨房に行き、料理長にケーキの作り方を教わりました。

料理長は、初めてでも簡単にじょうずに作れるケーキを教えてくれました。

ケーキづくりはそんなに難しいことではなく、新鮮な材料をきちんと量ったり、バターや卵を丁寧に混ぜたりすればいいのです。

　このプレゼントは両親を驚かせ、喜ばせるのにぴったりでしょう。

それには、内緒にしていなければおもしろくありません。

サリナ姫は料理番たちに混ざって、厨房でこっそりケーキを作りました。

　厨房は、不思議なざわめきに満ちていました。

おいしそうな匂いとあたたかな湯気に囲まれていて、いかにも幸せそうなこの場所で、

料理番たちはお祝いのごちそう作りにてんてこ舞いをしていました。

だから、サリナ姫が厨房の片隅にいるなんて、気づかない人たちもいました。

　料理長がちょっと席を外している間、サリナ姫の耳に料理番の女たちのおしゃべりが飛び込んできました。

「今日はサマト王子とリムラ姫の結婚記念のおめでたい日だけど、本当は悲しい日でもあるのよね」

「そうね。生まれたばかりの赤ちゃんがいなくなった日でもあるんだもの。

みんなもう忘れたふりをしているし、愛らしいサリナ姫のおかげで王さまたちは慰められているけれどね」

「あの赤ちゃんは、結局どこに行ったのかしら。生きていれば九歳になっているはずだけど」

　これを聞いたサリナ姫は驚きました。

自分にきょうだいがいたなんて、これまで誰も教えてくれませんでした。

それはお兄さんなのか、お姉さんなのか、どうしていなくなったのか、生きているのか死んでいるのか、とても知りたくなりました。

けれど、あんまり急なことでどきどきしたので、その場で料理番たちに詳しく訊くのは控えました。

ただ、静かに心をこめて、ケーキを焼こうと考えました。


　夕方になると、サマト王子とリムラ姫の結婚記念のお祝いの会が開かれました。

王さまとおきさきさまも招待されました。

もちろんサリナ姫も一緒です。

家族は水入らずの幸せな時間を過ごしました。

　たくさんのおいしい料理のあと、料理長が自らデザートを運んできました。

そして、このケーキはサリナ姫からのお祝いの品です、と申し上げました。

「木の実を森からとってくるのも、バターや小麦粉を量るのも、みんなサリナ姫がおひとりでなさったのです。

わたしはただ、おけがをなさらないように、時々見ていただけでした」

　料理長の言葉に、みんなはたいそう驚きました。

いつまでも小さくかわいらしいと思っていた女の子が、こんなことができるようになったのです。

ケーキを焼いたのももちろんですが、両親たちに内緒にして喜ばせようと考えるほど成長したのだと思うと、

リムラ姫は感激で胸が詰まりました。

　その晩の食事は、これまでのどんな豪華な料理にも負けないほど、おいしく味わわれました。

王さまとおきさきさまは、何度もサリナ姫を抱きしめキスをして、お帰りになりました。


　夜になってから、サリナ姫は両親の部屋に行きました。

父母は愛らしい娘を喜んで迎えました。

「今日はすてきなプレゼントを、どうもありがとう」

　リムラ姫はサリナ姫を膝に乗せて言いました。

けれども、サリナ姫はうつむいたまま黙っています。

「どうしたの？　何か困ったことでもあるのかしら」

　リムラ姫が訊きました。

サリナ姫はじっと唇を噛んでいましたが、しばらくすると決心したように、すっと顔を上げました。

「お父さま、お母さま、わたしにお兄さんかお姉さんがいるというのは本当ですか？」

　娘の突然の問いに、両親は言葉を失いました。

あんなに気をつけていたのに、いったい誰が口をすべらせたのでしょう。

「そんなのはでたらめだ」

　やっとのことでそう言おうとするサマト王子を、リムラ姫が遮りました。

「いいえ。あなた、本当のことを言いましょう。サリナはもう大きくなりました」

　リムラ姫の言葉に、サリナ姫は何を聞かされても大丈夫だと言いました。

そこで、両親は話しました。

　ちょうど九年前の今日、生まれたばかりの男の赤ちゃんが、悪い魔女にさらわれてしまったこと。

急いで国中を探したけれど、とうとう見つけられなかったこと。

それから一日だって、この男の子を忘れた日はなかったこと。

　リムラ姫は、鏡台の引き出しから魔女と赤ちゃんの似顔絵を出してきました。

それは捜索に使われたものですが、九年も経った今ではもう何の役にも立ちません。

それでも、これは初めての赤ちゃんがいた唯一の証なので、リムラ姫には捨てられなかったのです。

「わたしたちは、まだ名前もないこの男の子が、いつも元気で幸せで暮らしているよう、毎日お祈りしているのです」

　サリナ姫は静かに聞いていました。

何かを口にするには、一度にあまりにもたくさんのことを知りすぎました。

サリナ姫はしばらく黙っていましたが、やがて両親におやすみなさいのキスをして、自分の部屋に戻りました。


　次の日から、サリナ姫は変わってゆきました。

ただ、周りの人を心配させないように、普段は今までどおりに明るくふるまい、新しいことに挑戦するのはほんの少しずつにしました。

ですから、サリナ姫の考えに気づいた人は誰もいませんでした。

　サリナ姫が最初にしたことと言ったら、お付きの人に手伝ってもらっていた着替えをひとりでしたり、

自分から進んで本を読んだり、料理をいろいろ覚えたりという簡単なものばかりだったのです。

それは嬉しい成長のしるしなので、みんなは素直に喜んでいました。

　けれども、それらはすべてサリナ姫がある計画に基づいて行っていたことでした。

その証拠に、毎日の変化は小さくても、次第に服のリボンを後ろ手にすばやくきれいに結んだり、

図書室の本を百冊も読んだり、夕食の仕度をひとりで全部したりができるようになりました。

　サリナ姫は、いなくなったお兄さんを探しに行こうと考えていたのです。

でも、それはきっとみんなに止められてしまうでしょう。

国中の人が探しても見つからなかったのに、何もできないお姫さまに探し出せるわけがないからです。

それでもサリナ姫は、お兄さんが気になって仕方ありませんでした。

そこで、まず身の回りのことはすべてひとりでできるようにし、たくさんの本を読んでいろいろな知識を身につけようと思ったのです。

そして、毎晩ベッドの中で、まだ会ったことのないお兄さんについて、あれこれ考えました。


　そうして、しばらく経ったある春の朝です。

もうこれ以上お城で覚えることはないと思ったサリナ姫は、とうとうお兄さんを探しに行く決心をしました。

　サリナ姫は、まずドレスを着るのをやめました。

お城にいるような格好で町を歩くと、すぐに人々に気づかれて、連れ戻されてしまうでしょう。

旅をするには、農家の娘が着るような簡単な服と日除けの帽子、寒い時のためにショールが一枚あればじゅうぶんです。

　そのほかに用意したものは、水を飲むための赤いカップ、ペンを一本とノート一冊、針と糸とはさみ、手鏡を一つ、ハンカチ、

それからお母さまの鏡台にあった魔女と赤ちゃんの似顔絵でした。

これらを小さなリュックに入れたサリナ姫は、森へ遊びに行くふりをして、そのまま世の中に出て行きました。

ついでに、自分がお姫さまと思うのもやめました。